一瞬のごあいさつ

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一瞬のごあいさつ--松本駅 2006.5--

ここから大糸線経由で北陸を西に向かおうと決めた私は、乗車券を買うべくみどりの窓口に並んでいました。この駅は観光とビジネスの拠点であるうえ、連休中でもあり、夜の窓口にはそれなりの行列ができています。今窓口にいる2人のお客は、なにやら相当ややこしい依頼をしているようで、もう5分近く列が動きません。と、突然私の後ろから、明らかにアジア系の外国人女性の声がかかりました「すみませんが…」。最初は私を呼んだとは思いませんでしたが、もう一度同じ声が聞こえたので、私は怪訝に思って振り返り…そして思わず一歩引いてしまいました。
目の前にいたのはとんでもない別嬪さんだったのです。
身の丈160cm程度で、アジア系美人といえば概ね皆さんが思い浮かべる顔つきがあると思うのですが、まさにそのまま、ついでに「超」をつけてもいいぐらいのきれいな二十歳すぎの女性が、ちょっとはにかみながら私のほうをじっと見ていました。一瞬夜のお仕事の人かなと思ったのですが、物腰がちょっと違う。どちらかといえばエリート留学生のような雰囲気です。
どう返答したものか見当もつかず、私がぽかんと見返していると、彼女は言葉を継ぎました
「すみません、電車の切符はここに並ばないと買えないんでしょうか? 」
アクセントがちょっと外国訛りだけど、言葉使いは今の若い人より正確で丁寧です。私は普通に話することに決めました。

「あなたはどこまで行きたいんですか?」
「塩尻です」
「塩尻だったら、あちらの自動券売機のほうが早く切符を買えますよ」
「私、初めて乗るのでよくわからないんです。どうすれば切符を買えますか?」
「あぁ…ええと、それならあっちに行ってみましょう」
どうせ列は動きそうにないので、私は彼女と一緒に左手にある自動券売機に向かうことにしました。
券売機の上にある運賃表の地図を彼女に説明します。
「あそこに「当駅」とあるのが、ここ、松本駅。わかりますか?」
「はい」
「ええと、塩尻は…あそこ、あそこが塩尻駅。わかります?」
「はい」
「塩尻駅の下、いくらって書いています?」
「…230」
「そう、だからここから塩尻までは230円です。だからこの券売機で230円の切符を買いましょう。お金はありますか?」
彼女は小さな手提げかばんから、それに似合わぬ大きな象牙色の財布というか札入れを取り出しました。ちらりと千円札が数枚見えたので私は安心しました。彼女は小銭を握り締めると
「お金はどうやって払うのですか?」
どうやら、彼女は「本当に」鉄道の切符を買ったことがなさそうです。
「そこに入れるところがあるでしょう」
私が投入口を示すと、彼女はお金を数えようともせず次々に入れ始めます。私が慌てて止める間もなく、彼女は320円を入れてしまいました。ひょっとすると、彼女は日本の硬貨すらろくに触ったことがないのかもしれません。これじゃあおつりが中途半端なので
「今320円入っていますね」
「そうなんですか?」
「ほら、ここを見て。320円って出てるでしょう。もう10円入れて330円にしましょう」
チャリン。
「これで330円。画面を見ると、ここまで色が変わってるでしょ。ここまでの切符が買えるということです。塩尻までは230円だから、ほら、ここ」
「230」
「うん、じゃあ、そこを指で押してください」
彼女がそっと指で画面に触れると、めでたく松本駅から230円の切符と100円玉が出てきました。彼女はちょっと不思議そうに切符とおつりを手にしました。うーん、多分お釣りの意味が分かってないだろうな。でもここで説明するともっとややこしいし、とりあえずこのまま列車に乗ってもらおう。
「これで大丈夫。塩尻まで行けますよ」
私はこれで御役御免だと思い、ちょっと安心していました。

ところが彼女は
「塩尻までどの列車に乗ればいいですか? 私、初めてなので分からないんです」
と、さらに尋ねてきました。こうなったら仕方ありません。とりあえず改札口の近くまで行くと、列車の出発案内がありました。ところが、松本駅にはいろんな路線が乗り入れているので、よそ者である私には、行き先表示だけではすぐにお目当ての列車を見つけることができません。はてさて…
「ええと、僕もここの者じゃないので、すぐには分からないの。今、向こうで確かめてくるから、ちょっと待っててね」
「はい?」
かわいい表情できょとんとする彼女を置いて、私はもう一度自動券売機に向かいました。運賃表の地図を見て、さっきの出発案内の行き先を思い出して…よし、これで大丈夫。私は、こっちをずっと見ている彼女の元に戻りました。
「あそこの1番線って書いてある列車がありますね。20時10分の上諏訪行き。とぅうぇんてぃおくろっく・てん。分かりますか?」
「…20時10分…Twenty…1番線…」
「そう、それ。OK?」
「はい」
「あと30分近くあるけど、あの列車に乗れば塩尻に着くから、大丈夫ですよ」
「もう向こうで待っていていいですか?」
「もちろん」
「私、本当に列車に乗るの初めてで…、たくさん時間もらって、どうもありがとうございました」
「いえいえ、気をつけてね」
彼女はにっこり笑うと改札口に行きかけ、もう一度こららを振り返りました。
「あの…この切符で、本当に塩尻まで行けますか?」
「ああ、大丈夫ですよ」
「本当にありがとうございました。さようなら」
頭を下げると小走りで改札口に向かう彼女を、信用されてなかったのかなと苦笑しながら私が見送っていると、改札員がこちらを見ながら笑っているのに気づきました。どうやら周囲の人々の何人かも、さっきから私たちのやり取りをずっと見ていたようです。…まぁ、いいか。私はまたもや苦笑しました。
彼女は改札口でもう一度駅員にいろいろ尋ねているようです。説明に得心したのか、改札口を過ぎる彼女を見て、私はようやく安心しました。すると彼女は、笑顔でこちらを振り向いて突然大きく手を振ってきました。
慌てた私も、つられて大きく手を振りました。周囲の人たちも駅員さんもますます楽しそうに笑っていました。うぅ、恥ずかしい…
しばらくして彼女はホームに向かい、姿が見えなくなりました。私がさっきの列に戻ると、まだ最初の二人が窓口で話しこんでいます。列はちょっと長くなっていましたが、同じ時間を楽しく過ごせたので、私はなんだか幸せでした。
…そういえば、結局彼女は何者だったのだろう? 根本的な謎にようやく気づいたのは、私が明日からの切符を手に入れた後でした。


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